「鎌!?」
キン!と鋭い音が月の無い夜に響く。
鎌之助が放った手裏剣を、佐助の小刀が受け流した音だった。
佐助が受け流す一瞬に鎌之助は刀を取り出して構えた。小刀ではない。修行中にいつも鎌之助が「おれには小刀は小さすぎてなあ」と照れ笑いをしながら振るっていた、あの刀だ。
いまの鎌之助に笑顔はない。ただ佐助の、狙うべき対象の目を見据えている。
佐助は一瞬の出来事に状況が理解できなかった。したくない、と脳が拒絶しているのかもしれない。
「鎌・・・」
いつ飛び掛ってもおかしくない張り詰めた空気を吸い込んで、鎌之助は口を開く。
「おれを助けてくれたのは最高のご主人様だったが、忍の道は修羅そのものだあなあ。そう思わんか、佐助」
「じゃあなんで・・」どうしてその刀を俺に向けるんだ。
一緒に稽古をして。鍛錬を重ねてきた刀を俺に向けるのは何故?
辺りを漂う空気はどんどん密度が濃くなっていく。
鎌之助はわずかも構えを崩さず全神経を研ぎ澄ませていた。そして音を立てることもなく一歩、また一歩近づいてくる。肌の表面がびりびりするように粟立つそれは、紛れもなく殺気だ。
やばい。間合いに入りたくない。仲間の放つ殺気から逃れたい一心で後ずさったが、何かが背中に当たる。
すぐ後ろは塀だった。
「躊躇うな、佐助。そんな体たらくでは長は務まらんぞ」
鎌之助の大きな体躯は、輪郭を書き忘れたように周囲の闇にうまく溶けていた。闇が動作も表情もすべて覆い隠す。下賎だなんてとんでもない、殺気にあてられただけでも殺されたと錯覚しそうになる。
鎌之助は、こと隠密行動に関しては右に出るものがいないほど長けているのだ。
その闇から声だけが投げかけられる。
「おれはおれのやり方で主に仕えると決めた。だから躊躇うな、」
殺せ。
悪夢が近づいてくる。足音もしない。
それでも佐助は感じる、闇のかたまりが一歩一歩間合いをつめて迫ってくるのを。
逃げられない。
そして鎌之助の間合いに入る直前、
「・・・っくそ!」
殺らなければ殺られる!
後ろに下がれなければ前に進むしかない。佐助は壁を蹴って小刀を突き出した。
そして使わざるを得なかった。修行中、狙うのは死人が出るからと禁止されていた、頚動脈を狙った突き。
同じ一瞬に鎌之助は鳩尾目がけて手刀を繰り出した。
「がはっ!」
「ぐう・・!」
2人の攻撃は命中しお互いの体にダメージを与えた。
鎌之助の手刀は鳩尾に到達し、佐助の小刀は頚動脈を掻っ切った。
目の前で血しぶきが上がったかと思うと、数瞬遅れて鎌之助がわずかに音を立てて倒れた。
血。そして大量の血溜り。赤くてどろどろした液体が鮮明に弧を描きながら静かに広がっていく。
即死だった。
「・・・。 鎌さあ・・」
思わず全身の力が抜ける。その反動で握り締めていた小刀をとり落とした。
カランカラン、と大げさな音があたりに鳴り響く。
「手刀で・・人は殺せないだろ・・」
鎌之助は最初から殺す気など?
「なかったってのかよ・・!」
なんだこの理不尽は。
いったい鎌は何のために死んだ?
『忍びにいちばん必要なものを鍛えるための、これが最後の試練だ』
全身の血が怒りで沸騰する。
怒り?この感情を「怒り」と名づけることすら佐助には生ぬるい。頭に血が上る感覚。巡る血液が、すごい速さでごうごうと血管を流れる音が聞こえる。
ああ、血が赤いなあ。
目を開けても閉じていても、目の前はどこまでも精彩を欠いた赤だった。
佐助の首からひとすじの赤が流れた。かすがの持つクナイがぶるぶる震えている為だ。
「・・ちゃあんとトドメ刺さないと・・って里で習ったでしょ?」
「うるさいうるさい・・!黙れ!」
圧倒的に有利なはずなのに、かすがには少しの余裕も見られない。
対して佐助は口から血を吐きながらも、どこか落ち着きと諦念のこもった表情でかすがを見ていた。
毒が全身に回れば確実に死ぬだろう。しかしそれまでに若干時間がかかるようだ。
まだ死なない。かすががとどめを刺さない限りは。
だったら軽い種明かしでもしようか。
佐助はかすがに問いをひとつ投げた。
「大将を・・殺したのは・ごっほッ!誰だと思う?」
「何・・?」
言われてかすがは信玄の亡骸を振り返る。そうだ、何故気づかなかったのだろう。
さっき見たばかりの信玄の背中には、見たことのある鋭い切り口があったのではなかったか?
「佐助――おまえが!?」
「あ、やっと名前呼んでくれた」
佐助は笑う。いたずらが成功した子供のように。
この男があの信玄を。
「・・旦那は気づかない。まさか大将を殺したのがこの俺様なんてね」
「どうしてだっ!おまえら味方同士だろう!!」
「ごほッ!ぐっ・・。
はは・・もうたくさんだ、俺たちみたいな影の者が捨て駒にされるのは、さ。こんなの俺たちの代で終わりにしよう・・ぜ。」
あ、やばい。なんか本格的に視界が霞んできた。もう立っていられない。
「・・ッ!おい!?」
ゆっくり地面に倒れこんでしまった。視界にはかすがと、よく晴れた青空だけ。
途中経過はどうあれ、同郷の仲間に看取られるって結構幸せかも。そんなことを考えた。
「あ・・かす・・。今のは旦那に・・内緒・・・に・・」
「この期に及んで、真田幸村にはすべて隠し通すつもりか・・!?」
佐助は答えない。もう答えられないのかもしれない。
代わりに、軽く微笑むように口の端を吊り上げた。今日一日はとてもいい日だった、とでも言うように。
ああ。でも。もしも出来ることなら――
「――・・・」
かすがにも聞き取れないようなわずかな声で何事か呟くと、佐助は二度と開かないように目を閉じた。
同じ時刻。
敵味方の区別なく喚声が上がる、戦場の中心。
上杉軍・武田軍が衝突する戦場の最先端で、一際目立つ赤い体躯があった。
幸村である。
「うおおおお!押せ押せああ!!」
ひとり敵陣目掛けて真っ先に突っ込むその様は、端から見ればただの無謀にしか思えないだろう。
それでも幸村は手にした得物を大きく振りかぶる。
刃の部分が日の光に反射してわずかの間、残像がきらめいた。
「ぎゃああああ・・!」
太刀筋をもろにくらった何人かが断末魔を上げた。その数人がのけぞって倒れていく。
エアーポケットのように、赤い体躯の周辺だけ一瞬の隙間が出来る。
「ひい・・!」
一部始終を見ていた誰かが息を呑んだ。
と。
「む・・・?」
幸村はちらと後ろを振り返った。
「・・・・」
気配がしたのだ。
あやふやな憶測ではなく、断定できるほど確かで――――身近な空気感。
「佐助・・?」
理由はわからない。
ただ幸村は、いちばん身近なひとの名前を呟いた。