「・・・へ?」
なんの前置きも躊躇いも抑揚もなく兄は続けた。
「俺はそのせいで家から出ることをしなかった。要はお前のためだな」
「はあ・・。その、『好き』ってライクって意味でいいんだよね?」
「お前はみなまで俺に言わせる気か。違う」
ライク、ではないらしい。

「だから結婚なんかするな。今までどおりでいい」
「・・・。ハ!?」
これでは完全なプロポーズである。おかしい。私たちは兄妹・・だったと思うのだが・・


「なんでそうなるの?」
率直な疑問が口をついて出る。兄のほうも簡潔な答えで返した。
「わからん。
しかしこんな感情について理路整然と理屈をこねて説明するのもおかしな話だろう」
散々わけの分からない理屈を披露してきてよく言えたものだ。
いや、それよりまともなことを言っていることに驚くべきか。
「・・ねえ、兄さん」
「なんだ」
私を無表情に見ていたその顔は、途方に暮れたように俯きがちになる。



「兄さん、あのね・・」
いつもいつもどうでもいいことばかりしゃべっていて、言えなかったおせっかいを。
この場で言うのもいいかもしれないと、その時思った。





「私が好きだなんて、それはきっと兄さんが外の世界を全く見ようとしないからだよ。
兄さん、女の人としゃべったことなんてここ最近じゃ数えるほどでしょう?」
「・・・・」
兄は言い返しもせずに私の話を聞いている。
「女の人に限らずだけどさ。私はもっと兄さんに外に出て欲しいよ。
友達に会うとか、近所で買い物するとかなんでもいい。それでも多少は人と接する機会があるだろうし・・・
なんだろ、要するにその・・・
もっと!私以外とも話して欲しいの!」

伝わるだろうか。私なりの心配の仕方が。

いつも自分の部屋に篭もっているか、庭の手入れをするかしかしない兄をずっと私は見てきた。
ちゃんと仕事はしているし、私という話相手もいる。
たまに庭をいじっている兄はなんとなく楽しそうだ。




でも本当は。




たまに不安になるのだ。この人はこの先もこういう風に、限られた空間で一生を過ごしていくのかと。




コミュニケーションが極端に下手くそで鈍感な兄は気付かないかもしれない。
兄の精一杯の告白に対する私の答えが、完全な拒絶じゃないってこと。


私だって兄を大切なひとだと思ってるんだ。兄が私を思う気持ちと同等か、もしかしたらそれ以上に。


兄さんは顔を上げずに声を発した。
「ダメなのか」
「ダメっていうか・・まあそういうことにはなるかもしれないけど・・でもね、」
「わかった。俺もこの家を出る」
「へえ?」

何を言い出すのかと思えば。
やっと顔を上げた兄は、見たことがない真剣な眼差しをしていて。



「ダメだというのなら、俺は外の世界を見てくることにする」

「うん。・・・え?」




























そう言った次の日。
兄の姿は、本当に家から姿を消してしまった。
跡形もなく。





















「兄さーん!?」
いつもなら私よりも早く起きて、リビングで新聞を読んでいるはずの兄が。
なかなか降りてこないのを不審に思って、私は兄の部屋兼書斎と化している2階のドアを開けた。














そこには誰もいなかった。
ベッドはもぬけの殻。原稿を書くときにいつも座る椅子にも、今は誰も座っていない。
「兄さん・・?」
椅子に近づくと、何かがはらり・・と机の上から落ちて床に着地した。
私はそれを拾い上げる。
几帳面な兄の字で、文字が書かれていた。














『お前の言いたいことは大体飲み込めた。
少々面倒だが、これから日本ではないところへ長い旅に出ることにする。
国内は駄目だ。この国だと異端であることを俺は知っているし、この家以外に帰る場所など作るつもりはない。


時々手紙を書こう。


お前は幸せになってくれ。と心から祝福したいところだが。
俺はまだ諦めていない。
広い世界を見ても気持ちが変わらない、ということを証明するつもりだ。
それでは行ってくる』



































唐突だ。


いつだって兄の言うことは突然で、他人のことなんかまったく考えてやしないんだ。














































時が経つのは早いもの、で。




突然の別れからもう3年が経つ。




私は夫の家に入り、そうして主婦歴3年になった。
子供はまだいないけれど。私の両親がそうしたように、夫が帰ってくる時間にはお風呂を沸かし、
湯上りで出てくる頃にはビールを用意する習慣を、欠かしたことはない。















兄からは、時折思い出したように自筆の手紙が届いている。
2、3ヶ月に一度ならまだいいほうで、半年経ってやっと届けられるときもある。
兄は何故かインドから旅を始めたようで、ブータンやインドネシアなど、南アジアを重点的に回っているらしい。
手紙の文章自体は簡潔で素っ気無いものだが、少なくとも地域の人と関わりあって日々を過ごせているようで、とても楽しそうでもある。














南アジア、か。
どうせならもっと北の国へ行けばいいんだ。
そうすれば日本にいる私との距離が、わずかでも縮まるのに。


ねえ兄さん。そろそろ顔を見たいんだけどなあ。
これも兄の戦略なんだろうか。だとしたら効果はてきめんだ。














そんなことを考えながらついさっき届いたばかりの封筒を開ける。
中身を読んでいたら、最後の文章で私は思わず吹き出してしまった。






























『・・・今度は北の国へ行こうと思う。
日本に近づいているんだから、
お前が俺に会いたくなったら、いつでも駆けつけるといい。 それじゃあ失礼する。・・どうか元気で』














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