梅雨待ち




































つばめが低く空を飛びはじめると、雨が降る。


















僕は木の上に止まり直すと、空から梅雨がやって来ないだろうかと空を仰いだ。
今か今かと待ちわびるはるか下の地面には、花がまだらに群れを成している。
忘れな草、そして名前の分からない薄青い蕾が、重力に逆らおうと茎を空に伸ばしていた。新緑は
そこにあるだけで牧歌的な平和を象徴しているかのように穏やかだ。
太陽はすべての真上にどっかりと居座っている。反面その光はふわふわとやわらかい。
日光は枝に邪魔されて所々影を作りながらも、しっかり僕の足もとまで照らしていた。


暖かい春。僕はからだ全体でその恩恵に与る。






僕はそう、人間の習慣である「名付ける」という行為に従って名乗るとすれば、「ツバメ」である。




僕はもう一度空を仰いだ。
やれやれ。どうしてこんな面倒な仕事を引き受けてしまったんだろう。
ここらからうかつに移動も出来ないし、梅雨が来た途端に御役御免だなんて割に合わない。
一体人間はツバメをなんだと思っているんだ。
そして仕事自体は一瞬で終わるのに。それを待つまでの時間が長いこと長いこと。
思わず居眠りをしてしまいそうなほど退屈を持て余した僕は、心の中の自分の声に耳を傾けることにした。




すると待ち構えていたようにもう一人の僕が言い捨てる。
『こんなぽかぽか陽気の昼下がりから梅雨を待つなんて、まったく何を考えているんだか。
ついにモウロクしたのか?』



仮にももう一人の自分に向かって暴言を吐くとはね。言っていいこと悪いこと。
分別のついてない君は若造以下だな。やれやれ。



『退屈なんだよ。お前みたいな年寄りに付き合ってられるだけの忍耐なんか持ち合わせてないね』



僕はだんまりを決め込む。
耳に痛いほどの沈黙が落ちた。
それからしばらく春の匂いや木々の鼓動を感じていたら、結構な暇つぶしになることを発見した。







やがて心の中の僕は窮屈だと感じたらしく、その感情の流れにまかせて外の世界へ這い出ようとし始めた。
いつまでも暇を潰していたかったが、強硬手段に出られてしまっては手も出せまい。
僕は黙って自分の横暴を見ていた。

それは一瞬の出来事で、目を瞑ってから開けるまでの僅かな隙を突いて、もう一人の僕は同じ枝の上に
頼りない輪郭を作り上げた。こちらの僕が快く承諾しない間に現れたので存在が不安定だ。
いるんだかいないんだかいまいちはっきりしない感じ。仕方のないことだけれども。



『ふん。やっと自由な体になった。これで脱出は完了ってわけだ』



どうだかね。いいのかい、そんな貧弱な体で。



『しょうがないだろ、時間がないんだ。誰のせいでこうなったと思ってる?
とにかくこれで自由の身だ。人間なんか目じゃないね。
あいつらなんか、目を瞑っただけでまっすぐ歩くことも満足に出来やしない。
空を飛ぶ俺たちを手放しで羨む気持ちも分からないでもないってんだ。惨めな奴ら』



気持ちが高揚してきたのか、もう一人の僕は歌を歌い始めた。メロディが風に乗って遠くの木々まで流れていく。
ツバメのさえずりなんか、他の鳥と比べてみっともないから止めろと言っておいたのに。やれやれだ。






僕はチチチ、とため息をついた。
それにしても人間は僕たちをどう見ているのだろう。
僕たちには決まった仕事もライフスタイルもない。今回ばかりは例外だが、
どこへでも飛んでいけるという、見渡す限りの自由が与えられている。

しかし。勝手に美化するのは構わないとして、「自由であるように」という強制にどのような苦痛が伴うのか、
考えを巡らせたことが一度でもあるのだろうか?












ああ。風が雲を連れてやってきた。もう時間がない。
『今年の春のヤツ、随分気分屋みたいだな。よほど気難しいとみえる』



言われなくても分かっているよ。君は僕なんだから。



『さあ、最後の雄姿を見せてくれよ。思うさま低く飛んでくれ』



やれやれ、本当に割に合わない。今時ツバメの低空飛行を見て、梅雨入りを思い出す人間がどれくらい
いるというんだ。しかもそれを一番の年長者がやらなければいけないなんて。


『ふん。自由奔放を自称している俺たちの唯一の決まり事だろうが。
自由の強制にもそろそろ飽きたんだから丁度いいはずだ。おまけに命がけときたらな』






いわゆる老衰である。僕の翼は長い年月を経てぼろぼろに破れてしまっていた。
それでもできる限り低く飛ぶことが最期の勤めであるし、昔から続いてきたことなので、もう
伝統行事のように扱われている。これは恒例なのだ。









ああ。解放されてくるとするよ。一度ここを飛んで離れたらもう戻って来れないだろうから。















僕はもう一人の自分に別れを告げた。
そして地面上数センチぎりぎりを、思うさま飛んでみせる自分を思い浮かべる。















さよなら。












僕は枝から足を離した。