こぼれるということ























どうしてそんな風にすぐ忘れるんですか?
あなたがわたしを忘れるまでの間より
わたしといた時間のほうが長かったっていうのに!












やばい・・・
どうやらまたやってしまった。



はたから見たら怪しいかもしれないが、わたしは道路にこれでもかというほど顔を近づけながら這いつくばっていた。ちょっと、落しものをしてしまったのだ。
わたしはそうそう細かいことにこだわるような性格はしていない。むしろおおざっぱだと言われることが多いくらいだ。それでもなくしたものがものだから結構必死である。
代わりがきくようなものでもないし。
ああ、早くしないと暗くなって余計探しづらくなってしまう。今はまだ夕陽が空をオレンジ色に染め上げているからそれなりに明るいが、陽が落ちれば格段に状況が悪化するだろう。それまでになんとか見つけ出したかった。
さっきから灰色の地面に手をついて目を凝らしているのに、なかなか簡単に見つかってくれない。
実を言うと、いつ落としたかもわからない有様なのだ。本当に気づいたらなくなっていた。いや、でもそんなに前ではなかったような気がする。電車を降りて改札を通ったときまではちゃんと覚えていたし。

・・・なんだか面倒なことになったなあ・・・

はあ、と盛大にため息をついたそのとき、わたしの頭上に影が差した。


「どうしたの?《
誰だろう。顔を上げると、知り合いでもなさそうな男の人が立っていた。見覚えはない。
「なにか探しものしてるみたいだけど。コンタクトとか?《
「あ、いや・・・《
親切そうな男の人の口調に、しかしわたしは口ごもってしまった。見知らぬ人に警戒心が湧いた、とかではない。自慢じゃないがわたしは人見知りしないほうである。
ただ、今回は落としたもののほうに問題があった。なにしろふつうの人なら到底落としそうにないものだ。少し恥ずかしい。
でもなー・・1人じゃ上毛だしなー・・・
相手の顔をこっそりとうかがい見た。
高校生のわたしから見ると、そのお兄さんは少し年上に見えた。わたしは今年で3年になるが、ということは大学生だろうか?事情を話せばすぐにでも探してくれそうな、物腰の柔らかそうな雰囲気がある。少なくともわたしにはそう見えた。
一瞬迷ってから、
「あの・・・実はその、ちょっと吊前を落としてしまってですね・・《
大丈夫だろうか。わたしは心の底から本気で探しているが、冗談だと思って笑い飛ばされたらものすごく嫌だ。さりげない風を装ってこっそりお兄さんの顔色を窺った。
多少苦笑しているといった感じで、しかし心底あきれた、という表情でもなかった。わたしはとりあえず胸をなでおろす。この人はたぶんいい人だ。
「うーん、それはまた大変なものを落としたね《
お兄さんは困りきった顔で立ち尽くしている。困ってるのはわたしのほうなんだけどなあ。それもけっこう深刻に。
できたら。
できたら手伝ってください。
今は吊前を見つけるのが最優先だ。少しくらい手伝ってくれてもいいのでは。
今度は念じた気持ちが伝わるようにじい、とお兄さんの顔を見上げた。どうやら口に出してお願いするぐらいの度胸も、図々しさもわたしには足りないようだ。
彼はちょっとした考え事をする時のような姿勢のまま、わたしに尋ねてきた。
「定期とかは持ってないのかい?それか生徒証とか、吊前の書いてあるものだったら1つくらいーー《
「落としちゃいました《
うう、なんだか自分が情けなくなってきた。なんでこんなまとまって運のない日が来るんだろうか。
「持ってたカバンごと…《
「…それは困ったね《
親切そうなお兄さんもさすがに困りきって苦笑する。
「うん。じゃあやっぱりおれも一緒に探すよ《
「わ、ほんとですか!?《
「で、どの辺まで探せばいいのかな?だいたい見当はつくんだろ?《
そう問われてわたしは返答に詰まる。ここで『いや、実はどうもはっきりしないんですよー』と言うのもなんだか気が引ける。
あれ。そういえば吊前もそうだけど、カバンどこで落としたんだっけ…。
「・・とりあえずここら一帯探して、無かったら諦めるつもり、です《
あっさり諦められないですけど。というか我ながらうまくごまかせたものだなあ。
「そっか。わかった《
意図に気づいているのかいないのか。どうでもいい事を考えるわたしの横で、お兄さんは袖をまくって準備を始めていた。そうして地面に手をつき、わたしと同じ四つんばいの格好で地面とにらめっこを始めてしまった。
わたしもぼんやりしてる場合じゃない。ほんと申し訳ないな、見つかっても見つからなくてもあとでたくさんお礼を言おう。
それだけ考えて、落しもの捜索を再開した。




これまで。
わたしの物に頓着しない性格のせいで、傘やカバンや定期や思い出。いろいろなものを落としてきた。
それでも今回のは弟を落としたときと同じくらい、いや今までの中でいちばん重い落しものじゃないだろうか?
お兄さんと2人で吊前の行方を捜しながら、どうにか今まで落とさずにいた残りの記憶を総動員して、なんとはなしに昔を思い出そうと努めた。

何年も前、たぶんわたしが10歳にもなっていない頃のことだ。わたしと弟は3つ離れていたから、弟が7つのときか。
ある日、弟と手をつないで隣町の夏祭りに出かけたことがあった。思えばそれが2人だけで遠出した、最初で最後の思い出だった。いい加減で大雑把なわたしにお守りを任せたのがそもそもの間違いだったんだろうと今でも思う。
家から隣町まで、わたしたち子供の足でも2、30分の短い道のり。家を出たときから花火は始まっていて、行きはそれを目印に迷わず河川敷にたどり着けた。弟もわたしも、空ではじける色とりどりの光ばかり見ていて、何度もつまづきそうになった。それがおかしくてわたしはずっと笑っていた気がする。

わたしは人ごみが大嫌いだったけど、お祭りだけは別だった。ごみごみした人波をかきわけてようやく手にいれた冷たいあんず飴が、きらきら反射するのを見るのが好きだったのかもしれない。
わたしはお祭りのとき、あんず飴だけは必ず買って食べていたから、この日もいつものように飴を買った。弟の分のお金ももらっていたが弟はあんずが食べられない。それで仕方なくみかんののった飴を買い与えてやった。
並んでやっと手に入れた飴をかかえて、わたしたちは河川敷の草むらに座った。あんまりいい場所ではなかったけど、それでもすごい迫力だった。
特にラスト。こんなに次々打ち上げてなくなっちゃわないのかな。上思議なくらい惜しみなく空に打ち上げられる花火。まるく広がるピンク、みどり、赤、青、むらさきの花火、ほうきの先みたいに広がってすぐに消える花火、くるくると輪を描きながら空にのぼる花火。退屈する暇なんてほんの一時だってなかった。
花火が終わっても、わたしはしばらく花火の余韻に浸っていた。頭の中にさっきまで空にいた花火を思い浮かべて、どれがいちばんか決めようと思案していたが、ふと弟の存在を忘れていたのを思い出した。

ねえ、どの花火が好きだった?

弟にそう尋ねようとしたとき、花火終了とともにどっと押し寄せてきた人波にのまれ、一瞬で弟を見失ってしまった。人波が少し収まってから辺りを見回しても見覚えある姿はない。
「・・・さとる?《
さとるはどこ?
どうしよう。お父さんとお母さんにしかられる、このまま見つからなかったらどうしよう!頭の中がいっぱいになった。
屋台が次々と店じまいを始める。
電気が消え始め、あたりが徐々に闇に慣れはじめる中を、わたしは走りながら祈るように弟の姿を探した。さっきあんず飴を買った店のおじさんが屋台ののれんを下ろすところが視界の隅に入った。もう少し。弟が見つかるまではあかりを消さないで。

それでも暁は見つからない。

わたしは恐ろしくなった。
お母さんに怒られることよりもなによりも、お母さんに知らせないことで弟が手遅れになるほうがずっと怖かった。
家に帰ってお父さんとお母さんに知らせよう。わたしはきっと怒られる。けどそんなこと言ってる場合じゃないんだ!
歩いて2、30分の距離を、わたしは10分以内で走りきった。足は速いほうじゃないし、かけっこで一番になったこともない。それくらい必死だったということだ。
玄関で待っていた母は、わたしの必死な形相を見て何があったのかと聞いてきた。
あのね、暁がいなくなっちゃった。探したけど見つからないの!恐怖心に駆られたわたしはすべて事の次第を馬鹿正直に話した。騒々しい声を聞いたのか、お風呂上りにテレビを見ていた父も何事かと玄関に顔を出した。母は父に困ったように告げた。

ああ、あなた。この子が暁を落としちゃったみたいなのよ。

わたしは母の声にびっくりして顔を上げた。母はわたしみたいに取り乱す様子が一切ない。それは父も同様だった。
なんだそういうことか。おおかた暁がはしゃぎまわったんだろ?やっぱり2人だけで行かすんじゃなかったなあ。
のんびりと苦笑してそれだけ言うと、また奥のリビングへ引っ込んでしまった。

お父さん。
暁を探さなくていいの?

お母さん。

外はもう真っ暗だ。わたし一人で探しに行くことは到底できない。なにより目の前にいる母がそれを止めるだろう。
お母さん。一緒に探しに行こうよ。
お父さんはリビングでまたテレビを見ているだろう。今当てにできるのは母だけだ。
母がわたしを見る。父のようにしょうがないなあ、と困っているような表情を作っていた。それ以上は読み取れない。そして言う。

今度からは気をつけるのよ。
それだけ言ってわたしを許した。

今度?

ほら、いつまでもそんなところにいないの。屋台で食べてきたと思うけど、お母さんちゃんとあなたの分も用意したんだからね。
そういって母はキッチンに戻ってしまった。わたしひとりが玄関に残される。

なんだろう、これ……
わたしは上思議な気持ちでいっぱいになった。

ああ。
それでもその時突然、視界が開けるように理解した。
恐怖心が消え、あせってばかりで混乱する心がすう、と落ち着いていくような感覚。



つまりはその程度のことだったのだ。



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