南行き

































私の兄の話をしよう。
もういなくなって久しい、唯一の兄を私が覚えているうちに。









私の兄は、一言で言えば厭世的なひとだった。
例えば夕食時、2人でテレビを見ながらご飯を食べているときのこと。
テレビ画面には芸能人の犬達がIQテストをしている画が映っていた。
テストは透明な箱の一部に穴を開けてえさを入れ、愛犬が何秒で気づき中のえさを取れるのか、というありきたりなもので、個性派芸人も交えたゲストたちが面白半分に秒数を争っていた。
「なんでこんなもんをやってるんだろうな」
芸人がアップで映るブラウン管を眺めつつ。ぽつり、とささやきをこぼすように兄が言う。
「さあね。面白いからじゃないの」
私はつまらなそうな顔で見も蓋もないことを口にした。
それを聞いていたのかいないのか、兄はさらに
「犬を馬鹿にしてるようにしか見えないな・・」
ため息をついて一気にしゃべりだした。
「人間は劣ってるんだ。個性なんて、自分を主張しようだなんてまるで理にかなっちゃいない。
自然界はみんな他の仲間と同じからだであること、同じ行動をすることが生き延びるために必要なんだ。
何十年何百年と培ってきた野生の知恵が生み出した生活サイクルこそ、長生きへの近道ってわけだ」
兄は基本的に寡黙だが時々堰を切ったように饒舌になる。
その割りに表情はけだるげで、抑揚のない話し方がどこまでも機械的だった。

訂正しよう。
私の兄は、一言で言うととても変わったひとだ。






ついこの間まで都内の一軒家で兄と私は二人暮らしをしていたのだが、兄と交わす言葉はそう多くはなかった。
年が離れていたせいもあるのだろうか。7歳離れていたから、私が七五三で7つを数えたときはすでに兄は中学2年生だったわけで、それを考えれば話題が合わないのも当たり前のことのように思える。
私が覚えたての九九を両親の前で暗唱して見せたときだって、褒めちぎる母さんと感心する父さんの横で何事もないように小説を読みふけっていた。



ついでに家族の話もしておこう。興味がないといえば、両親の死だってそうだ。
父さんは税理士の事務所を家から徒歩5分の場所に持っていて、実際うちはとても裕福な部類に入る家庭だった。
おまけに裕福な家にありがちな「金はあるが団欒の時間がない」ような冷め切った家族では決してなかった。恵まれていたのだ。
父さんは真面目だから仕事が終わればすぐ家に帰ってお風呂に入る。
そしてその間に母さんはタイミングを見計らって、コップ1杯のビールをテーブルに出す。
その当時は毎日のように見られる光景だったが。今思えば、息のあったとても気持ちのよい夫婦だった、ということになるのだろう。
この家でどうして兄のような人格が出来上がるのかは大いに疑問の残るところだ。


そして前述したとおり、両親は他界した。
二人そろって、仕事へ行く途中の飛行機事故で。
税理士が出張なんかするのか、と問われればイエスと答えるしかない。税理士だってお客様を相手にするサービス業なんだぞ、とは父の言だ。
自営業は業者同士のネットワークがもっとも重要で、顧客獲得は基本的にすべて業者仲間同士の紹介によるものなのだ。父さんがなぜか自慢げに説明してくれたが、今となってはなんだか微笑ましい。
その日、父さんと母さんは大阪で税理士の集まりがあると言って出かけた。兄は自室に篭っていたし、私は雑誌を読んでいたので二つ返事で両親を送り出した。








そして事故が起きた。








2日後の通夜の席で、私は魂の抜けた人形のような顔(だったと思う)で、ひたすら弔問客に頭を下げていた。
兄も同じように黙々と頭を下げていたが、けだるげな顔はいつもとまったく変わらない。私と比べると最初から感情の入っていない人形だった、といっても言いすぎじゃない振る舞いを見せていた。
端から見ても「両親に先立たれたかわいそうな子供」にはまったく見えず、戸惑った弔問客もいたに違いない。



兄は悲しくなかったのだろうか。




「持っておけ」
お坊さんが念仏を唱え始め、焼香が始まると兄は私に自分のハンカチを差し出した。
「・・・う」
うん、と私は言いかけて視界がぼやけていくのに気づいた。涙が出てきたのだった。
自分が泣いていることを理解するのに少しかかったが、そういえば両親が死んだことを聞いてから泣いてないことに気がつく。
兄ならともかく、私もずいぶん親不孝な娘だなあ。
冷静な頭の一部がどうでもいいことを考える間も、私の涙はしばらく流れ続けていた。
兄のハンカチで涙をごしごしこすってから、はたと気づいた。
兄の顔を見たが、やっぱりなんの感情の起伏も見られないいつもの顔である。




「・・・・」



ありがとうを言いそびれた。
生涯で初めて、といってもいいかもしれないくらいの兄の気遣いだったのに。








両親の遺した家にその子供が住む、というのは世間一般で言えばごく普通の話である。
ただし私の兄は全然普通ではなかったので、流れでなんとなく二人暮らしをすることになったときには大きな違和感を感じたものだ。
両親は死んでからも、私たち兄妹にいろいろと残していってくれた。
即物的な話をすると、一軒家や保険金の相続などだ。これは兄と私の折半にした。
こういうのはふつう長男が継ぐんじゃないのか、と兄に言ったところ、
「普通、か。・・だったら俺たちは折半でいい」
どうやら自分が普通でないことは認識済みらしい。
そしてその普通でない括りに私も入れているらしい。どうしたら誤解を解いてくれるのだろう。



私たち家族が裕福であることは、もちろん知っていた。
しかし家の貯金や保険金で、とんでもなく莫大なお金が入ってくることに私は驚いた。母の通帳の貯金だけでも信じられない額だったが、その後に入った両親の保険金もものすごい。通夜の日から2週間ほどたった夜に気づいたことだ。
保険会社からの味気ない通知書と数字の羅列は、妙に説得力があって生々しかった。
「一生苦労しない額だな」
一瞥するなり、兄はさほど興味がなさそうにお気に入りのドリップコーヒーを一口飲んだ。
兄が保険金について言及したのはその一言きりだ。他の大多数にとってお金が大事な位置を占めているのとあえて真逆をいくように、兄にとってお金はどうでもいいものだったのだろうか。
当時兄は道楽のような小説書きをしていて(驚いたことに多少の収入があった)、私は大学の2回生をしていた。私が自分の将来とお金と生活について不安をかかえていたときに兄が何でもなさそうにしているのだから、そのときは気持ちの上では頼りになる兄だな、と思ったものだ。
しかし今考えてみても、兄が綿密な将来設計を立てていたとは思えない。

あのときのことを問い詰めたくても、無口で時々饒舌なあの変人はもういない。一生の謎になってしまった。




とにかく家にお金はあった。兄がよそで一人暮らしをしようが、私が出て行こうが暮らしていけるだけのお金があったのだ。
私はこの家を離れる気は毛頭なかった。
料理好きの母がいつも綺麗にしていたキッチン、父が毎朝座って新聞に目を通していたリビング。長年家族と過ごしたこの家を離れるのがさびしい、という理由があったからだ。

「兄さんはどうして一人暮らしをしないの」
ある時、兄にもその理由を聞いたことがある。
「庭が、」
ちょっと噛んだようだ。珍しい。
「庭が綺麗だから」
答えは、無口なときの兄らしく簡潔だった。
庭でガーデニングをはじめたのは意外にも父である。ガーデニング初心者の父は、とにかく見栄えのする樹を沢山植えたがった。
梅。桜。椿。ワイルドストロベリーや桜草、パンジーなんかも植えていた(父はピンクが好きだった)から、うちの庭はずいぶんごちゃごちゃしていた。
それが気に入ったらしかった。
実際その日から、兄は父に代わって庭の木々の世話をするようになった。








前置きが長くなってしまったが、とにかく私たちはそのような経緯で実家二人暮らしに至った。
少々遠回りのような蛇足話が多いのはご容赦願いたい。私はとうとうあの変人を理解し切れなかった。
どうやってあの人のことを説明したものか、いまだに計りかねているのだ。






二人暮らしが決まった後のこと。
私は両親の残したお金に頼りたくなくて、大学を出たらとにかく就職がしたかった。
「兄さん、今日は遅くなるから先になんか食べてて!」
まだ寝ているだろう兄の部屋に大声で伝言を残すと、私は家を出た。
兄は相変わらず物書きをしている。
意外なことに兄も私と同様、親のお金にはほとんど手をつけていない。そこそこ売れているらしいのだ、兄の小説は。
「行路病者」、「冬の盲点と死角」など、題名からして小難しそうなので私は読んでいないが。


この頃の生活で、困ったことがひとつあった。兄が食事を忘れることだ。
「ただいま」
私が大学から帰ると、兄はたいてい自分の部屋にいるか、庭を眺めているかのどっちかだった。近所を散策することもするらしいがごく稀である。
完全なインドア派だ。
「梅が咲いた」
帰るなりこれである。慣れたけど。
「四季があるということ、旬があるということが日本にとってどれほど有益か考えたことのある人間は
どのくらいいるんだろうな・・」
聞く人が聞けば風流なことを言う人だと感心するかもしれないが、私は半ば無視である。
「ご飯食べた?」
「それどころじゃなかった。梅を見てたから。
お前も見るといい」
饒舌モードに入っているらしい。
「・・・」
なんか作るか・・。

「今度カメラを買うかもしれない」
私がせっせと鶏肉を炒める間じゅう、兄は私に日本の四季の貴重さと素晴らしさについて延々語り続けるのだった。



こんな風に饒舌な日もあれば、寡黙な日ももちろんある。
「ごはん食べてないんでしょ」
「ああ・・」
会話がそれっきりの日もざらだった。
そういう日は、たいていご飯を食べるとすぐにまた自室に篭もってしまう。小説を仕上げていたのかもしれない。






まだまだ兄のエピソードには事欠かない。
こんなことを言うと身内自慢みたいなので恥ずかしいのだが、兄はどう贔屓目に見なくても美人だった。
「名刺をもらった」
食事中、兄が唐突に今日の出来事を一言で語った。
「女の人?」
「ああ」
名刺をもらった、と言うことは兄の仕事柄、出版関係の人だろうか。
こんな時は語らない兄のせいで、私はいろいろと推測しなければならない。
おおかた原稿を出しに行った先で声をかけられたのだろう。兄はなぜか郵便を嫌うから、原稿は必ず自分で出しに行く。
その先で声をかけられる、というのは過去にもあったことだ。
「食事を断ったら怒られた」
「それはまた理不尽な・・」
しかし女の人の気持ちも分からないでもない。兄さんのことだ、きっと見も蓋もない断り方をしたに違いない。
「嫌だ」の一言か、それとも意外と「どうしていま顔を合わせたばかりの他人と打ち解けなければならないんだ。失礼する」みたいな饒舌モードだろうか。
兄が話したがらない部分を、想像で補う。面倒な割にそれはそれで楽しいものだった。






兄との二人暮らしは、長いもので3年ほど続いた。
その間に大学を卒業して、私は大手出版社に無事就職した。
兄は相変わらずの生活を続けた。
ひとつ大きな連載枠を取ったこともあったが、兄は一言「連載が決まった」と言うばかりで、私のほうがむしろ喜んでいた気がする(その頃出版社で1年ほど働いていた私は、連載が取れる、ということがどれほど貴重なチャンスか分かっていたのだ)。




その生活が終わりを告げたのは、私が結婚して彼の家に嫁いだから。
いや、正確に言えば兄が家を出て行ったほうが先か。




私には、大学時代から付き合っている人がいた。
私より2つ年上の先輩であり、同じ学科でゼミが一緒だった。大学入学直後からの付き合いであり、そうすると結婚までに5年間付き合ったことになる。
少し冷めた言い方に聞こえるかもしれないが、なかなかに堅実な結婚をしたと自分でも思う。


そして実は、この結婚するという事実以前に、長く付き合っていたということを兄が知ったのは結婚式の一月ほど前だったのだ。
「初耳だな」
普通、身内が結婚すると聞いたら「おめでとう」とか「幸せにな」とか言うと思うのだが。
「何故黙っていた」
そうだった。兄は普通ではないんだった。
「え・・。だって聞かれなかったし」
それ以前に兄とそういう話が出来る雰囲気になったことがないし。と言いかけてやめた。
「そうか・・」
珍しく、兄はどっと疲れが押し寄せたかのように目を閉じた。いつものコーヒーを啜ろうともしない。






「・・あの家は、兄さんがそのまま使ってくれてかまわない。せっかくだから庭も広くするといいよ」
心残りは、父さんと母さんがいた家には住めなくなるということ。
結婚して家庭に入ってももちろんたまに帰るつもりだけれど。
さびしいと思うのは、単に私の気持ちの問題なのだろう。
「お前、俺があの家に残った理由を覚えているか」
まったく兄らしい唐突な話題転換。
「? ああ、最初に確かーー」
「お前の名前はなんと言う」
思い出しかけた私の言葉を、兄は急かすように遮る。


「はあ?『仁把』ですけど」
一体何が言いたいのだろう。
「・・ああ、やはり面倒だな・・」
らしくない様子で、兄は答えに詰まっていた。
「何。なんかあるなら言いなよ」






私は後に、先を促したことを後悔する。


















「俺は仁把を好いている」












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